近代塗装発祥の地、横浜

横浜は、近代塗装発祥の地と云われている。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いる四隻の艦隊が浦賀沖に現れ、鎖国中だった江戸幕府へ開国を求めた。「泰平の眠りをさます 上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」と狂歌にも謳われたとおり、この出来事は幕府独裁であった当時の政治体制に打撃を与え、後の日本の近代化に大きく影響を及ぼすこととなった。翌年の日米和親条約の調印の場となった横浜応接所は、江戸幕府の手によって武蔵神奈川宿海岸に設置された。それは前年、ペリー一行が久里浜に上陸した際に使われた施設を解体、再利用してわずか四日間で急造されたと云われている。木造平家建て、間口八間、奥行四間の建物で、中央を談判会議室、両脇を日米両国の役人、警護者の休憩所とする造りであったが、当時の普請奉公・林大学頭は、「外国人と談判をする場所であるからには、西洋風に白や青で塗りあげたい」と考え前代未聞のペンキ塗装への着手を断行した。江戸中の塗工職人を捜しまわった結果、村田安房守邸に出入りしていた渋塗職人である町田辰五郎に白羽の矢が立った。塗装といえば渋塗・漆塗が主流で、「ペンキ」という名前すら知られていなかった時代である。
初の試みにたいへん苦心した辰五郎であったが、研究に研究を重ねたのち、1854年2月17日(嘉永7年1月20 日)ようやく工事に着手した。長男 彌三郎や職人を引き連れて、横浜村の太田屋新田に建てた小屋に暮らし、そこから応接所の工事場に通うなど、まさに全身全霊をかけての取り組みであった。試行錯誤の結果、工事を終了させた辰五郎であったが、そのできばえは自らの目から見てもあまりに稚拙で、西洋式のペンキ塗装とは比較にならない仕上がりであった。悩んだ末、幕府に出入りしていた通訳のコスカルドの紹介で、本牧沖に停泊していた米船アンダリア号へ出向きペンキと油を入手し、さらに通訳のウイリアムスの指示を得て乗組みの職人から塗工の方法を学び、再び塗装工事に臨んだ。
同年3月4日(嘉永7年2月6日)、工事は無事に完了し、3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が滞りなく調印された。
これがわが国における近代塗装請負業の始まりであった。

「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」模写その後の1859年9月6日(安政6年8月10日)、功績が認められた辰五郎は、小普請奉行・遠山隼人正により日本で唯一人、各国公使館からペンキ材料を買入れることのできるペンキ塗元締の特権を与えられた。当時の横浜では、外国使節、移住商人などのさまざまな建物に洋風建築が取り入れられるようになり、ペンキ塗装の仕事が増加していった。そのため、従来の渋塗屋からペンキ塗装業へ転向する者も多く、辰五郎は多くの弟子を養成した。さらにペンキ塗装と弟子たちの将来を考えた辰五郎は、ペンキ塗元締の特権を返上し、一般自由取引とするよう政府に働きかけた。これにより自由にペンキを入手することが可能になり、弟子たちは全国各地で同様に塗装業を営むようになったのである。

歴史

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)
ペリー率いる四隻の艦隊が浦賀沖に現れる
1854年3月4日(嘉永7年2月6日)
町田辰五郎による日本人初となる横浜応接所へのペンキ塗装工事が竣工する
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
日米和親条約調印
1874年(明治7年)
町田辰五郎の弟子であった志田勘三郎が独立し志田塗装を創業
1897年(明治30年)
志田萬太郎が志田塗装二代目に就任する

(中略)

1954年(昭和29年)
戦後の復興のランドマークとして伊勢佐木町センタービルが竣工し、同ビルに志田塗装の事務所を移転する
1985年(昭和60年)
志田英治が志田塗装五代目に就任する。父の影響で幼少期より絵が好きだった英治は、外壁の雨染みや傷、汚れなどの経年劣化を美しいものだと捉えていたことから、経年劣化の風合いを塗料で描き再現する特殊塗装に着手する
1992年(平成4年)
経年劣化の再現塗装の技術を確立し、事業の柱にしようと試行錯誤するも一般には受け入れられず苦悩する。
これまでの実績から通常の塗り替え依頼は多かったが、英治の「綺麗にするのではなく、古い外観を出来る限り残す」ことへの執着から施主との対立が後を立たず、経営は悪化していく。
従業員の要望により通常の塗り替え依頼を渋々受け入れる場合は、劣化し古くなった外壁を塗膜だけでも残そうと剥がし取り、保管するようになる
1996年(平成8年)
特殊塗装に傾倒した結果、事業資金が尽き廃業する
廃業後も断続的に塗装の仕事を続け、塗膜の採集も継続する
2022年(令和3年)
アズマテイプロジェクトにて「志田塗装 虚実の皮膜」展を開催。収集していた塗膜のコレクションを初公開する

MOTアニュアル2022「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(東京都現代美術館)の大久保ありの展示空間にて塗装協力

3331 ART FAIR に参加(BankART1929 代表 細淵太麻紀 推薦)